solo exhibition @ 空とたね(香川)----- 2019.11.23 - 12.01
作ろうとする世界の違和を問い続けるために

 

 

 

我々は何処から来て何処へ向かうのかという問いは

宗教と哲学の歴史において、繰り返し問い続けられ、決して答えの出ない問いとして今も在り続ける。

 

この問いの唯一の解答法は神の概念の導入なのだろう。

人間という階層の上にもう一つ上の階層を付け加えれば、人間の世界は神の箱庭として鑑賞される世界になり、創造物としての生を全うする事が人間の生の根拠となり得るのは納得がいく構造だ。神様を喜ばせるために生きる。多くの宗教の根幹は創造神への感謝である。しかし人間はこの階層を維持できない。神を人間の世界に引きずり下ろして勝手に神の子を生み、階層を越えて神と話をしてしまう。やがてその天啓者を神の階層にいる人間だと思いたい後世の人々によって宗教が始まっていく。

宗教は人間の階層から生まれたものだ。神の階層の概念ではない。だから人間の生の根源について答えを持っているわけではない。ただ神に感謝することしか人間には出来ないということを自覚することが、本来の宗教が教えられる唯一のことではないかと僕は考える。それをただただ信じるということ。帰依するということ。それが宗教の根幹ではないだろうか。

 

それでは哲学はどうか。哲学はこの問題を上の階層を用いずに解決しようとする。人間に備わった二つの偉大な道具の一つ、“言葉”によって。しかしプラトンでもカントでも東浩紀氏でもこの問題の答えを言葉で記してはいない。それは何故だろう。それは言葉という道具の性能限界がそこにあるのではないだろうか。人間が生の根源について脳で考える。脳で考えるためには言葉を使わなければならない。脳がどれだけ優秀でも、言葉がそのスペックについていけない性能だとしたらその先へは進めない。今身につけている言葉に代わる新しい“言葉ver.2.0”をインストールし、人類が進化するより問題解決の方法はないのだろう。映画「メッセージ」のように。

 

では言葉の限界は人間の限界を決めてしまうのだろうか。そうではない。人間に備わった偉大な道具はもう一つある。それは“手”だ。

人間は手で何かを作ることができる。洞窟の壁に絵を描くことができる。土を焼いて器を作ることができる。石や木を彫って像を作ることができる。人間は手で何かを創造することで言葉の限界を越えようと、意識的にも無意識的にも努めてきたのではないだろうか。

我々は何処から来て何処へ向かうのか。その問いを言葉に変換する瞬前に手が動き出して訳の分からないものを作る。それはまだ何者でもないもの。言葉の介入してこない世界。古くから芸術家たちはそうやって作品世界を作ってきたのではないだろうか。ラスコー洞窟の芸術家になぜこのような絵を描いたのか、と聞けるとしたらおそらく彼らは答えを持っていないだろう。それは言葉も宗教もない世界での出来事だからだ。縄文人に火焔土器のことを聞いてもおそらく同じだろう。キョトンとして、やがて踊り出し歌い始めるだろう。彼らは哲学や宗教のかわりに音楽と美術を愛していた。言葉以前の世界では歌と踊りが人と人を結ぶ手段だった。

僕はそう考える。しかし、だからといって生の根源に対する問いが無かったとは思わない。人間の思考法が言葉以外にあるのならば彼らの思考法は現代人と別のものだったと思う。ただそれを知る術はないけれど。

 

僕はいま、言葉と手を持った現代人として何かを作りながら生きている。

手で何かを作り、それに言葉で名前をつける。

あるいは言葉で概念を与えてから手で作ってみたりする。

言葉と手の間で彷徨い、そこに存在する違和は絶えず抱え続けている。

しかしそうやって作り続けていくしかない。

言葉を手放すことはできない。

むしろ言葉によってこの違和を問い続けることができる。

そしてまた手で何かを作ることができる。

宗教から哲学と美術の両輪へ。

問い続けながら作り続けて進む世界へ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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